バックパッカー旅行記2007 セルビア(ベオグラード)~セルビア大学の医者の卵のミリツァ~

10年くらい前(2007年)のお話です。学生時代に女性一人でロシアでホームステイの後、東欧ほぼ全部をバックパッカーでまわった時のお話です。

前回の記事はモンテネグロでした!
バックパッカー旅行記2007 モンテネグロ(コトル・ポドゴリツァ)~EU入ってないのになぜか通貨がユーロ~

モンテネグロのポドゴリツァからセルビアのベオグラードに電車で向かい、朝11時くらい出発で15時くらいにベオグラードに着く列車に乗りました。

列車が6時間遅延

そしたら、先に書いておきますが、列車が、大幅に遅延しました…!!
まあ、日本が正確すぎるので、少しの遅れがあることは覚悟していました。

それもあり、15時だったら遅すぎないと思っていました。
だけど、実際は、電車は、国境で止まり永遠に動かず、到着までに6時間も遅延したのでした…!そして、予想外な事に、夜10時にベオグラード中央駅に到着したのでした。

私、半泣きでした。。。
夜10時に行ったこともないベオグラード(しかも治安も良いとは言えない)に着くとか、本当に大丈夫か!?と思いました。。。つーか、めちゃくちゃ不安でした。

更に、この長距離列車に乗っていたら、気づいたらモンテネグロ人?の部活帰りっぽい男子学生の30人くらいの集団に囲まれて、彼らにめっちゃ眺められてました。みんなサッカーボールっぽいのを持ってました。
多分、アジア人の女の子がこの列車に乗っているのが珍しすぎて興味津々だったと思うんですが、私からすると、知らない国の人達に興味津々で囲まれるのは怖かったです…!

電車が大幅に遅れたのも相まって、ビビり始めたので、宿の人に駅まで迎えに来てもらおうと思い、ロシア語で、
「宿に電話したいんだけど、誰か、電話持ってない!?!?」
とその場にいる人に大声で聞いてみました、そしたら、その男子学生たちが、
「ロシア語で話した!!!!」
とまた大騒ぎを始めました。
とはいえ、私は複雑な会話のロシア語(セルビア語)は分からないので、どうしようと思っていたら、
「私達は英語が出来ます、どうしたの、何かあったの?」
と言って、目の前の席に、お母さんと娘さんのペアが座ってきました。

セルビア大学の医学部で学ぶミリツァ

娘さんの名前はミリツァと言って、聞けば私と同い年の女子大生でした。
ベオグラードにある大学の医学部に通って、将来歯医者さんになると言っていました。
お母さんも娘さんもとても英語が堪能でした。
電車の中で唯一英語が通じる人達だったのもあり、多分、このセルビアでは、かなり豊かな暮らしをしているご家族なんだろうなぁ…って思いました。

私が同い年と知るやいなや、お母さんの方が「ミリツァ、あなたと同い年じゃない!」と嬉しそうに言い、ミリツァははにかみながら私と会話し始めました。

ミリツァが「セルビアって、どんなイメージ?」と聞いてきました。
その時に私が思わず「駅前に廃墟が残っていたりで、ちょっと危なそうなイメージだと思った」と答えてしまいました。

そしたら、ミリツァが大泣きし始めてしまいました。。。
「私はね、あの時7歳だったの、小さいながらに逃げまどってね、上から沢山の爆弾が落ちてきたの…!!!」
と言いながら大泣きしてしまいました、私は本当に無知な自分を責めました。

お母さんは、ミリツァに向けて
「ミリツァ、日本から来た彼女も同じ立場なのよ。分かる?
彼女の国は広島と長崎に原子爆弾を落とされて、沢山の人が亡くなった。
あなたと彼女は全く同じ立場なのよ」
となだめるように言っていました。

私はこの時、このお母さんのこの言葉にただただ感嘆しました。
そして、自分の言葉の軽率さを本当に恥じました。。。。
以来、セルビアのお友達には何度か出会う機会がありますが、彼らが過去の戦争の時の凄惨な記憶を想起するような話題は、絶対にしないでおこうと思っています。

ちなみに↓がミリツァです!右は、もはやメイクも何もしてない私です。

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そんなこんなで、色々話していたらベオグラード駅に着きました。
その時もう時計は夜10時でした、ベオグラード駅には、ミリツァの彼氏がいました。
ミリツァが紹介してくれ、「私の彼氏、彼も同じ医学部なのよ」と言っていました。

私はミリツァたちと別れ、真っ暗なベオグラードの街の中を歩き、予約していた宿を探しました。駅の公衆電話から宿に電話したと思うのですが、確か、
「道順難しくないから、歩いて来てくれて大丈夫だよ、徒歩圏内だし」
とか言われた覚えがあります、仕方ないので初めて着いたベオグラードで道に迷って変な路地だけには入り込まないように気を付けて探したら、幸運にもすぐに辿り着けました!

ベオグラード観光とお母さんに電話

そして私は次の日はベオグラードを観光しました。
ちなみにベオグラードは駅前にNATO本部跡が廃墟の状態で残っています、これは、あの時の凄惨な記憶を忘れないように、という意図的なものだと聞きました。

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ベオグラードの風景です。

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この前、セルビア人の親愛なるお友達にこの景色を見せる事が出来ました!とても嬉しいです。

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ここで私は公衆電話からお母さんに電話しました。
ちなみになのですが、私は、この壮大なロシア~旧共産圏の旅を親に黙っていました。。
なぜなら、間違いなく反対すると思ったからです。。。

だから「ロシアに留学に行くんだ」と言い、ロシアの大学のパンフレットを見せ、ロシアの大学に留学しているように見せ(それだけでもかなりの反対があった)、実際は半分ロシアにホームステイし、残り半分でこうやって旧共産圏をぐるぐる回っていました。そのためのお金も自分で貯めました。
あと、自己責任の旅なので、絶対に迂闊な事はしないでおこう!と思い、毎日凄く気を付けていた上に、事前にかなり細かく旅程を調べていました。

お母さんがもし私がセルビアに行ってると知ったらびっくりしてしまうと思い、私は電話上で「お母さん、ロシア楽しいよ!」と嘘をつきました。。。
お母さんは鬱病で当時病状が芳しくなかったので、あまり心配させたくなかったからです。
もちろん、無事に帰国してから実は旧共産圏を全部回っていた事を親に言いました。
ちなみに父親は、その後仕事でボスニア人に会ったようで「俺の娘がボスニアに行ったぞ!」と嬉しそうにそのボスニア人の方に話していたようです。

そして、ベオグラードの宿には、日本人の人が一人いました。
この人はどうやら、この辺りを旅行して回って長いようで、次に私が夜行列車でルーマニアに行こうとしていると言ったら、
「ベオグラード~ブカレストの夜行列車はね、絶対に2等車じゃなくて1等車の座席を取ることをお勧めするよ。
つーのもね、俺の彼女がその列車で2等車に乗って、寝ている時に物音がして目を覚ましたら、ナイフ持った強盗がコンパートメント内に侵入してて、ビビったって言ってたからね~」
と言っていたので、この時点で2等車のチケットを買っていた私は凄くビビり、駅に行ってお願いして1等車のチケットに変えてもらい、1等車のコンパートメントに乗り込みました。

次はルーマニアですが、ちょっと長くなりそうなので先にマケドニア(オフリド、スコピエ)を書きます!