※これは、私が3年前、起業する直前に出かけた瞑想修行(10日間、山奥で朝4時から夜9時まで、ひたすら誰とも話さず目も合わせず瞑想のみをするという修行の場)で、瞑想を経て気づいた事を直後に書き留めたものです。
以前も一度書いたものをコンパクトにまとめた再掲版です。
その修行の名前は「ヴィパッサナー瞑想」と言います、ブッダの呼吸法を基にして徹底的に自分に向き合う瞑想の場です、帰ってきてから色々な人に話したところ、サラリーマン・OLの方々から起業家や自営業の方・主婦の方まで、既にこの瞑想をご存じの方は意外と多かったです。
今回ここに書く内容は、私が10日間を終えた直後の本当にクリアなマインドの時に、瞑想の10日間で降ってきた「本当の幸せについて」の探求の内容を、日常に戻って俗世にまみれてしまう前に書き留めたものです。
当初は、これは、ヴィパッサナー瞑想に興味がある知り合いなどのごく一部の人にしか見せていませんでした。でも、皆さんが色々な思った以上の色々な感想をくれたので、今回、ここの場でも共有できればと思い、記事にしました。
なお、ヴィパッサナー瞑想自体の体験の感想については、また別途違う記事で書けたら嬉しいです。
目次
1.本当の幸せ(=愛)について
2.渇望について
3.罪悪感について
4.嫌悪について
5.嫌悪から解放されるには
6.無知について
7.獲得ゲームについて
8.悟り(=差取り)について
執着を生む事が不幸の元凶であり、執着を手放すことにより、人は、本当の幸せ(=愛)に気づける。
執着には3種類あり、渇望、嫌悪、無知が存在する。
1.本当の幸せ(=愛)について
本当の幸せとは、つまるところ、愛である。
愛とは何か?
相手の自由を完全に認める事、相手へのコントロールを手放すこと。
よって、究極の愛とは、すべてのコントロールがなく、完全な自由が認められている状態である。
「執着を手放す事が幸せに繋がる」のはなぜかというと、すべての物事に対するコントロールを完全に手放すと、自分自身に対するコントロールに関しても、完全に人(自分含む)から、手放されることを認められるから。
「どうあっても良い、どうあっても許される状態」が至高の愛の状態。
2.渇望について
まず、渇望は、既に持っているものに対する執着。
例えばお金で言うと、お金を持っている自分に対して驕りの気持ちを持ち、お金を持っていない状態の自分を恐怖し、お金で物事をランク付けしている状態。
もちろん、お金を持つこと自体が悪ではないが、手放せないと、それは渇望と言う名の執着となる。他にも、容姿、肩書など、色々ある。
では、人は、様々なものを持っていると思うが、どこからが、渇望と言う名の執着になるのか?
それは多分、自分の中に無意識に「自分より持っていない人に対する見下す気持ち」が生まれた瞬間から、執着に変わっているのではないかと思う。
それは、言葉でいうと「卑下」「慢心」とかではないか。
卑下、慢心を生んで何が悪いのか!?手に入れるために、努力してきたんだぞ!とも思いたくなるかもしれない。
しかし、幸せになるためには、卑下、慢心は大きな邪魔になる。
まず、卑下、慢心を生んだ瞬間に、人は相手を見下しつつ、ほぼ確実に罪悪感を持つ。
これはほぼ自然に生まれる。心が冷徹で、そんな罪悪感なんて気持ちないよ!って人も、見えるところに罪悪感がないだけで、実は、奥底にそれが眠っている。そっちの方がタチが悪い。いずれにせよそれはあり、眠っている(=消えていない)だけなのだから。
そして、更に、“持たない状態”に変化する自分をとてつもなく恐怖する。
持たない自分に変化した時に、自分が自分に卑下されてしまうからだ。そして、自分が勝手に自らの思考の中に作った他人からも強烈に嘲笑され卑下されるだろう(本当はその他人は存在しない虚像なのだが)。過去自分が他人に同じことをしたように。
まさに一寸先は闇だ。闇を作っているのは、ほかでもない自分なのに。
3.罪悪感について
なぜ、では、罪悪感が生まれるのか?
根源的には、それは、人は、何を持っていても持っていなくても貴賤なく等価値であるから。
その真理を人の体感覚と感情は知っているから。
だから「これはおかしい」と罪悪感という感情で反応している。
ここにある不変の真実とは、
「人は何を持っていても持っていなくとも貴賤なく等価値」
である。
4.嫌悪について
執着の2つ目の要素である嫌悪は、何か嫌な事をされた時に発生する。
相手にされた事を思い出し、相手を憎み、その嫌悪は心の中に沈殿する。
しかし、俯瞰して出てくる本当の答えは「実際は何も起きていない」なのである。
例えば、AさんがBさんに裏切られたとする。
しかし、Bさんは往々にして何とも思っていない場合がある。もしくは、悪気を感じていない場合も多い。なぜか?
それは、Aさんの心の中で仕上がっているドラマは、よりBさんを恐ろしい加害者に仕立て上げたドラマへと化してしまっているからだ。Bさんはいつもこんな事をしていて、だから今回もこんな事をして、しかも私がこんなに傷ついても露知らずの様子だ、なんて奴だ!
その感情は何度も何度も訪れて、怒りや嘆きを生む。
なぜなら、まず、裏切られたという事実自体が(実は)誤認であり、更に、自分の中に認めきれていない感情があるがために、その事実は何度もフラッシュバックされるからだ。
Bさんは「俺は裏切ったんだぜ!」とは十中八九思っていない。ただ、そこにいるのは裏切られたと自称し嘆くAさんと、Aさんの頭の中に登場している「裏切り者のBさん」だけだ。
よって、Aさんがこの時にするべき事は、Bさんを何度も思い出しては腹を立てるのではなく、事実を俯瞰して冷静に再認知し、「ああ、僕はこんな過剰なドラマを作っていたのか」とハッキリと気づく事と、「僕はこんなに傷ついていたのか」と認める事ではないか。
大抵、嫌悪の感情である怒りや嘆きの裏には「○○をされたら××な自分になってしまう、それは情けない(=愛される価値がない)、自分がそんな状態にあるなんて認められない!」というのがくっついている。
加えて、人は、自分が脳内で過剰なドラマを作って、一人で必死になっているという状況を酷く情けなく感じ、それを認める事を断固として嫌う。
しかし、それによって、認めきれず、抑え込まれた嫌悪は、更に強大化し、更なる嫌悪を生んでしまう。
そして、なぜ何度もフラッシュバックするかというと、その感情が処理しきれていないからだ。
もし、Aさんがこの時に、Bさんに対する嫌悪を解放せずに抑え込んでしまった場合、Aさんがもし似たシチュエーションに再度出くわした時には、
「ああ、またとんでもない奴が現れた!!なんで世の中にはこんな奴ばかりいるんだ!あいつも裏切り者か!」
と身構え、裏切られる前から、また裏切られる準備をしてしまうのである。そして、準備万端で裏切られることをスタンバイし、結果、見事に再度裏切られるという筋書きを作り出す(要するに、本当は裏切られていないのだ)。
そして、更に「あいつめ!」と憎む。と同時に「ああ、僕はどうしていつもこういう形で裏切られるんだろう…」と自分に対しても嘆く。完全なる悪循環だ。
そもそも、情けない自分は本当にダメなのか?そこから冷静に考えてみると気づいてくる。
情けない自分はダメではない上に、情けない自分でも、そうじゃない自分でも、同等に価値があると言う事が真理であると気づいた瞬間に、嫌悪の感情は半分近く溶け出して姿を消す。
5.嫌悪から解放されるためには
例えば、このプロセスを分かりやすい具体例で書いてみる。
職場の上司のDさんは、Cさんに「君だけを頼りにしている」と言い、Cさんを酷使した。Cさんは「優秀なDさんにこれだけ重宝されている自分はきっと特別なのだろう」と考え、一生懸命頑張った。しかし、酷使されたCさんは過労で体調を崩し、職場を去ることになった。Dさんは辞めると分かった瞬間、Cさんに暴言を吐いた。Cさんはその後何度も「でもDさんは僕の事を頼りにして僕を大事にしてくれていたんですよね」と周りに問うた。
DさんがCさんを大事にして頼りにしていたかどうかは分からない。ただの道具として扱っていたかどうかも分からない。だけど、Cさんは「大事にしてくれていたんですよね」と周りに問うている。これは、Cさんが心の奥で、
「もしかしたら道具としてしか扱われていなかったのかも(=愛されてなかったのかも)」
と言う恐怖心があり、それに上塗りするかのように、
「Dさんは僕の事を大事にしてくれていたんですよね(=愛してくれてたんですよね)」
と言う言葉を塗り薬のようにかぶせている状態だからではないか。
ここでCさんがするべき事は、Dさんに直接それを問う事でもなく、Dさんを無理やり愛する事でもなく(それは自己犠牲のもとに見返りを求める愛でしかない)、Dさんをけなす事でもなく、まずは、冷静に自分の心の中を見て、
「ああ、僕は、Dさんに道具として扱われていたと奥底で認識していたんだな」
と認める事ではないか。道具にされていた情けない自分を認める、これは当事者からすると大変に恐ろしい事かもしれない、だけど、まずはそれを認める事が救われる近道だ。
多分、認めた後に出てくる疑問は、
「あれ、僕がそう認識していたとして、本当に僕は道具として扱われていたのだろうか?」
と言う事と、
「本当に僕は情けないのだろうか?そして、情けないとしても、情けない自分は本当にダメなのだろうか?」
と言う事である。
上記の自らの質問にも自らの心で真摯に向き合ってみると、実は、道具として扱われていたかどうかも、そして、情けないかどうかも、そんな自分がダメかどうかも、全て、定かではない事が明らかになってくる。
全ては自らの心の定義づけと、自らの自らへの叱責が生み出した苦しみだったのだ。
そもそも、道具として扱われるという概念も、情けないという概念も、ダメと言う概念も、生まれたばかりの赤子の頃にはなかったはずだ。全て、生まれてからの経験で刷り込まれたものだ。
バカにする・されるという概念がない人には、たとえ、相手が「バカにしてやろう」と言う概念で接してきたとしても、自分がバカにされたという自覚はないはずだ。
じゃあ、ここで、Cさんを苦しめたDさんが幸せに生きていいのか?そこは、また別の話だ。そもそも、Dさんが本当に幸せだったら、CさんはDさんとの間でこのような気持ちになるであろうか?
Dさんは幸せではないからこのような事をするというのも真実だ。Dさんの心の中のDさん自身の執着は、Dさんが処理しない限り、何を手に入れたとしても、永遠に蠢き増大し続けるだろう。
自分の状況を冷静に見て、自分が見えない何かと必死に格闘していた事、そして、相手から何かをされた自分を情けないと思っていたことを素直に認めると、早く楽になれる。情けなかったとしても、人はいつもどうあっても等価値なのだと言う事にも気づくと、更に楽になれるであろう。
ありがちな対処法の一つに「将来Dさんを見返すために、フルパワーで頑張ってやる」というのがあるが、本当に幸せになりたいのであれば、これは根本的には何の解決にもなっていない事は明白だ。
そこについては、「7.獲得ゲームについて」に別途記載している。
6.無知について
執着の3つ目の要素である無知とは、事実の誤認だ。
世の中にはたくさんの情報があふれている。人々は、知らず知らずのうちに、それらに毒されている。
実は、人生は事実の誤認だらけなのだ。
例えば、嫌悪の話についても、このような事実がありながらも、そして、このような事を別の方法で説く書籍がいくつもありながらも、世の中は全く変わらず、永遠に同じ事を書いた、似たような本が売れ続ける。それはなぜか?
人々が事実を認識したくないからだ。
嫌悪の話を見た時に「いや、自分に限ってはそうじゃないから」と思ったとする。この時点ですでに事実の誤認が始まっているのだ。
ではしかし、どうやって、事実と、自らが誤認した虚構の事実を見分ければいいのか?
人は、何か特別な事を感じた際に、感情が生まれる。
感情が生まれた瞬間こそが、事実誤認の瞬間ではないかと私は考えている。
「年収高くて羨ましいなぁ」
この言葉を見た瞬間に「まあ、僕も年収高いからね!(=喜び)」と思ったとしても、「僕は年収低いからなぁ…(=嘆き)」と思ったとしても、どちらも事実誤認なのだ。
真実は「年収が高くても低くても等価値、全ての物事に貴賤はない」なのである。
「年収の高低で人の価値を図るとは情けない!(=叱責と怒り)」これも違う。見る角度が単純に変わっただけで、年収の高低で価値を図るのは良くない!と言う二元論を唱えてしまっている。
だから、本当の幸せに気づいている状態で上記の言葉を見ると、感情が伴わない状態で「ああ、そういう概念も世の中にはあるのだろうなぁ」と言う言葉が生まれる程度に留まる。
上記を見ても、どういう風に物事を見れば、生きるのが楽かは明白であろう。
たとえ「まあ、僕も年収高いからね!(=喜び)」でその時は快楽を感じたとしても、それも本当の幸せではない。これについても7.獲得ゲームについてに詳しく記載する。
人は驚いたことに、世の中のあらゆる事に、上記の物差しを導入してしまっているのだ。
容姿、肩書き、物事の有無…沢山の物差しに人は苦しんだり(束の間の)喜びを感じたりしている。
そして、物差しを自らが導入し作っていること自体に気づいていないのだ。
怒り、悲しみ、喜び…すべてが事実誤認の瞬間だ。
これらは全て本当の幸せ(=愛)とは別の次元のものである。
感情の22段階と言うものがあるが、私の認識は違う。
感情が生まれるイベントは、全て、本当の幸せを覆い隠すヴェールでしかないと考える。
感情を超えた、平衡な心が保たれている瞬間が本当の幸せ(=愛)であると考える。
感情は二元論に基づいた獲得ゲームによって生まれる。
7.獲得ゲームについて
2.渇望についての項に記載した“必死に努力したのに!”と言う概念は、「努力したから愛してくれよ!」に繋がる。
行動に“努力”と言う言葉を付ける時点で、楽しんでやっている、身体が勝手に動く行動とは完全に意を異にする。
努力と言う言葉を伴って為された行動は効力感へと変化する。手に入れたから愛してくれよ!と言う獲得ゲームだ。
「有能な俺は、じゃあ、その獲得ゲームにおいて、ひたすら勝ち続けていればいいじゃないか!」
とも考えるかもしれない。しかし、それをやればやるほど、たとえ勝ち続けたとしても、本質的な幸せからはかけ離れていくのである。
なぜか?
その獲得ゲーム上では、勝った・負けた、の二元論のみが存在する。
そして、この獲得ゲーム自体から自らの意志で降りない限り、人は、人生と言う波の中で
「やった~手に入れた、万歳!俺はこの中の誰よりも優れてる!」
と驕ったり、また一時は
「どうしよう、俺は失ってしまった、なんて無能なんだろう…」
と落ち込んだり、この無限ループを人生の浮き沈みと呼び、ひたすらぐるぐる回り続ける。
たとえ勝ち続けたとしても、世界のNo.1にならない限り、常に負けは眼前に姿を現す。
1000万手に入れたら1億、1億手に入れたら100億、100億手に入れたら1000億…と欲が際限なくなるのもそのためだ。
そもそも、対戦相手も、対戦方法も、対戦ルールも、全て自分で決めているのだから、勝ちがどうかも分からないのが本当の真実だ。
そして、対戦相手を「負け」認定した瞬間瞬間にも、自分の心には罪悪感と失う恐怖が蓄積し続けるのだ。
本当の幸せは、この獲得ゲームの中にはない。
だからこそ、それに気づいた瞬間に、この獲得ゲーム自体から、ゲーム台自体を片付けて、潔く降りる必要がある。
そもそも、このゲーム台作ってセッティングとルール設定を行い、他の参加者を集めて、それぞれの参加者に丁寧なキャラ付けの再定義までしていたのも、すべて、他でもない自分だったのだ。一人遊びの渦中にハマっていただけだったと完全に気づく段階が、ゲームから降りるチャンスが巡る瞬間だ。
それが悟り(差取り)の段階だ。
8.悟り(差取り)について
どこかで「人生は人が全知全能の神の子であることを思い出すゲーム」と書いてあるのを何度か目にした。
人は、子供時代からのなんらかの刷込みにより、本当の自分が愛されていないのでは?という一つの勘違いを起こしてしまった。
しかし、真実は「すべての物事は等価値(=どんな自分でも愛される)」だ。
では、なぜ人はその真実を忘れてしまったのか?
それはきっと、自らの人としての価値を、お金などの物事にリンクさせてしまったから。では、人としての価値とは何か?
それは、“愛される”価値ではないだろうか。
人は、子供から大人へと成長していく過程で、愛をもらえる対象を親から社会へとシフトさせていった。子供時代は自らの生存の可否が親に依拠していた。そのため、親の愛をもらうために無意識のうちに行っていた行動が、愛をもらえる対象が途中から社会へとシフトしただけで、同じように社会に向けて行われることとなった。
それで社会から愛がもらえる保証はどこにもないのに。
人は時折自慢をする、主張をする。
「俺、こんな家に住んでるんだよね~」
「私、こんな素敵なお友達を知っているの」
その後に継がれる言葉は“だから私を愛して”ではないだろうか。
だが、人間の真実は「何を持っていても持っていなくても、物事は貴賤なく等価値」である。
それが真実であるのに、人は子供時代の環境や刷り込みにおいて、それをすっかり忘れてしまい「本当の自分は愛されていない」と考えるようになってしまった。
人は成長の過程で、愛されるために、色々なルールを自らの中に勝手に作り(=獲得ゲームのゲーム台の設置)、色々なものを手にし、それにより、自分の価値が上がったり下がったりしたかのような錯覚を受けてきた。その物事の存在の有無自体は否定しない。
ただ、そこに、勝手な意味付けをするのをやめる。
「今の社会では○○を手にした方が凄いから、これを持っている自分は凄いかもしれない」
社会というのは、人間の集合体であり、そこに意見はない。
よって、“今の社会では”“○○を手にした方が凄いから”の書き出しから既に、すべて、自分が勝手に周りを見て無知なままに決めた「虚構の」ルール設定となってしまっているのだ。つまり、全部が独りよがりの目線による錯覚から出来上がっていたのだ。
人は、自分で自分に沢山のルール設定を課し、それで自分を時には喜ばせたり、悲しませたりしていた。
しかし、本当の幸せは、愛は、その喜びと悲しみのどちらにもないのだ。
喜びは、本当の幸せでも愛でもない。
自分が勝手に作っていた世界(無知)と、その中での二元論の獲得ゲーム(渇望と嫌悪)の存在に、まず自分で気づき、そして、ゲーム台を片付けて、ゲーム自体から降りる事を決意した時、今まで、ゲームの世界とゲーム台というものにすっかり隠されていて見えていなかった真実が見えてくる。
それが本当の幸せであり、愛ではないだろうか。
そして、そのゲーム台を片付ける行動自体が「悟り(=二元論のゲームで自らの中に勝手に作っていた差を取る、差取り)」ではないだろうか。