これはForbesに結局出さなかった記事です☆折角なので載せさせてください。
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グローバルな女性、世界で通用する女性というとどんな女性をイメージしますか?強くてカッコ良い女性、という言葉もよく聞きます。
バックパッカー・コスプレイヤーとして世界を40か国以上まわり、NYの外資系金融機関にて3年前に米国のウォールストリートで働いていた私ならではの考えを書かせてください。
「世界で活躍する女性になるには」というパワーワード
国際化が叫ばれる昨今、「世界で通用する女性に」という文言でのマーケティングをよく見かけます。
以前、ご縁があり「グローバルに活躍する女性になろう」というセミナーのような場にお邪魔したことがありましたが、そこでは、背筋をピンと張って弱みを見せずに男性相手にも屈せず、カッコ良いお洋服と化粧で身を飾った女性になろう!という趣旨のセミナーが行われていました。
また、自分の意見をガンガン伝えて、相手に押しの一手で意見を押し通す!という風に伝えている人もいました。
海外(ここでは特に欧米)での仕事を経験したことない人からすると、(自称)経験者と呼ばれる人にそうやって断定的に言われると
「そうしなきゃいけないの!?」「なんかすごそう!?」
って思ってしまうかもしれないです。実際セミナーにもそういう人が多かったです。
でも、私からすると、こういう趣旨での「世界に通用する女性」という定義に疑問を感じます。じゃあ、結局のところ、それってどんな女性なんでしょうか?もっとユルく考えてみたいと思います☆
凛とした女性=強い女性なのか?
凛とした女性はかっこいいです。しかし、凛とした女性=強い女性であるのでしょうか?
外見が弱々しくとも、中身が凛としてしっかりしている女性も多いです。
「NYでは日本の可愛い系女性は子供のように扱われるから、もっと大人な服を着て、大胆かつ強く凛と振る舞うように」と言うメッセージも以前目にしました。
海外で通用する女性のイメージ像は、日本で可愛いとされている女性とは一線を画している事が多かったです。
実際に、NYにずっと住んでいたという日本人キャリアウーマンの方は、私が可愛い系のワンピースを着ているのを見るなり、
「その格好は大人の女性にふさわしくない、そんなんじゃ一流レストランで良い席に通してもらえない」
と言っていました、でも私はその時ふと考えました。
ある程度のTPOはあるという前提で考えたとしても、それ以上自分を変えて、今の日本で言われている世界のテンプレートに迎合したいのかなぁ?、と。
本当の自信はゆるぎない自分自身から
NYのウォールストリートで投資の仕事をしていた際も、私は向こうのTPOを過度に意識するのではなく、自分の好きな格好をして過ごしていました。
可愛いブラウスを着て会社に行った日もありました。
でも、欧米人の同僚たちは誰も「おかしいからやめろ」とは言いませんでした。寧ろ、良く見ると、向こうの方が服装が自由であるようにすら見えました。
50代過ぎの部門長クラスの女性の方が、カラフルなAラインワンピースで出社したりもしていました。
ぶっちゃけ、表面的な服装や態度なんて関係ないです。結局のところ、仕事の出来とその人の「人としての」中身だと思いました。
強そうな態度・服装やメイク・押しの一手などの方法論でどうにかしようと思う時点で、一緒に仕事をしようとしている外国の人達を軽く見ているとも正直思いました。
現地で同じ職場の同年代の米国人のキャリアウーマンの女の子と仲良くなって二人で飲みに行った時に、私は「私はね、金融にずっといるけどコスプレも大好きなの」と言いました。ついでに「日本では時々“変わってる”とか言われたりもするけどね」とも言いました。
日本では、実際こういう話を言った時に、相手が苦笑して「何歳?」「結婚は?」「宴会で着てきてよ!」と引いたりイジったりという事もありました。
でも、その米国人キャリアウーマンの女の子は、
「変っていうのはWeirdじゃなくてUniqueってことでしよ?それはNYでは褒め言葉」
「むしろ、自分が何者かと言えることがNYでは自分がここにいるという事の証明、逆に自分の信念をはっきり言えない人間は存在しないも同じ」
と言っていました。
方法論よりも、自分自身を知った方が早い
この記事は、「~すべき」「~がスタンダード」という方法論ばかりを徒に取り入れようとする事は、往々にして無意味だなぁ…という事を伝えたくて、書きました。
どんな自分でも、それが世の物差しから外れていたとしても、自信を持って振る舞う事が真の国際的な女性であり、凛とした女性だと思います。
実際に、私はそういう人達を国内外問わず沢山見てきて尊敬の念を感じていました。
「国際的に活躍する女性」に限らず、どこかの誰かの成功している(ように見える)方法論に頼ろうと思わなくなった時こそ、その「なりたい自分」にまさになろうとしている瞬間なのではないかなぁ…と思います。
方法論でちょっと颯爽ぽくしてみても、そんなものはすぐに見透かされてしまいます。
「例え国際化社会であっても、全てにおいて英語を使おうとするのではなく、日本語を大事にしても良い」という考えにも少し似ているかもです。
二つの異なるものがあるとして、どちらかに寄せるのではなく、自らを見つめた上で両方を共生させるという考え方です。
逆にいうと「~すベき」という言葉の海におぼれて、自分なんか無理かも···と思う必要なんてなく、誰だって、いつでも何でも出来るという事も伝えたいです。
NYのウォールストリートで働いたというと「どうやったら出来るの!?」と聞かれます。でもこういう感じのユルユルな私でも出来る時点で、これは誰にでも出来ると思います。
どこでもいつでも、何をしていても、人生を楽しく過ごしてほしいです☆
By ひかり