※これは、私が2年前、起業する直前に出かけた瞑想修行(10日間、山奥で朝4時から夜9時まで、ひたすら誰とも話さず目も合わせず瞑想のみをするという修行の場)で、瞑想を経て気づいた事を直後に書き留めたものです。
その4(最後)です、長いので分けています。
2.渇望について
3.罪悪感について
4.嫌悪について
5.嫌悪から解放されるには
6.無知について
7.獲得ゲームについて
8.悟り(=差取り)について
執着には3種類あり、渇望、嫌悪、無知が存在する。
7.獲得ゲームについて
2.渇望についての項に記載した“必死に努力したのに!”と言う概念は、「努力したから愛してくれよ!」に繋がる。
行動に“努力”と言う言葉を付ける時点で、楽しんでやっている、身体が勝手に動く行動とは完全に意を異にする。
努力と言う言葉を伴って為された行動は効力感へと変化する。手に入れたから愛してくれよ!と言う獲得ゲームだ。
「有能な俺は、じゃあ、その獲得ゲームにおいて、ひたすら勝ち続けていればいいじゃないか!」
とも考えるかもしれない。しかし、それをやればやるほど、たとえ勝ち続けたとしても、本質的な幸せからはかけ離れていくのである。
なぜか?
その獲得ゲーム上では、勝った・負けた、の二元論のみが存在する。
そして、この獲得ゲーム自体から自らの意志で降りない限り、人は、人生と言う波の中で
「やった~手に入れた、万歳!俺はこの中の誰よりも優れてる!」
と驕ったり、また一時は
「どうしよう、俺は失ってしまった、なんて無能なんだろう…」
と落ち込んだり、この無限ループを人生の浮き沈みと呼び、ひたすらぐるぐる回り続ける。
たとえ勝ち続けたとしても、世界のNo.1にならない限り、常に負けは眼前に姿を現す。
1000万手に入れたら1億、1億手に入れたら100億、100億手に入れたら1000億…と欲が際限なくなるのもそのためだ。
そもそも、対戦相手も、対戦方法も、対戦ルールも、全て自分で決めているのだから、勝ちがどうかも分からないのが本当の真実だ。
そして、対戦相手を「負け」認定した瞬間瞬間にも、自分の心には罪悪感と失う恐怖が蓄積し続けるのだ。
本当の幸せは、この獲得ゲームの中にはない。
だからこそ、それに気づいた瞬間に、この獲得ゲーム自体から、ゲーム台自体を片付けて、潔く降りる必要がある。
そもそも、このゲーム台作ってセッティングとルール設定を行い、他の参加者を集めて、それぞれの参加者に丁寧なキャラ付けの再定義までしていたのも、すべて、他でもない自分だったのだ。一人遊びの渦中にハマっていただけだったと完全に気づく段階が、ゲームから降りるチャンスが巡る瞬間だ。
それが悟り(差取り)の段階だ。
8.悟り(差取り)について
どこかで「人生は人が全知全能の神の子であることを思い出すゲーム」と書いてあるのを何度か目にした。
人は、子供時代からのなんらかの刷込みにより、本当の自分が愛されていないのでは?という一つの勘違いを起こしてしまった。
しかし、真実は「すべての物事は等価値(=どんな自分でも愛される)」だ。
では、なぜ人はその真実を忘れてしまったのか?
それはきっと、自らの人としての価値を、お金などの物事にリンクさせてしまったから。では、人としての価値とは何か?
それは、“愛される”価値ではないだろうか。
人は、子供から大人へと成長していく過程で、愛をもらえる対象を親から社会へとシフトさせていった。子供時代は自らの生存の可否が親に依拠していた。そのため、親の愛をもらうために無意識のうちに行っていた行動が、愛をもらえる対象が途中から社会へとシフトしただけで、同じように社会に向けて行われることとなった。
それで社会から愛がもらえる保証はどこにもないのに。
人は時折自慢をする、主張をする。
「俺、こんな家に住んでるんだよね~」
「私、こんな素敵なお友達を知っているの」
その後に継がれる言葉は“だから私を愛して”ではないだろうか。
だが、人間の真実は「何を持っていても持っていなくても、物事は貴賤なく等価値」である。
それが真実であるのに、人は子供時代の環境や刷り込みにおいて、それをすっかり忘れてしまい「本当の自分は愛されていない」と考えるようになってしまった。
人は成長の過程で、愛されるために、色々なルールを自らの中に勝手に作り(=獲得ゲームのゲーム台の設置)、色々なものを手にし、それにより、自分の価値が上がったり下がったりしたかのような錯覚を受けてきた。その物事の存在の有無自体は否定しない。
ただ、そこに、勝手な意味付けをするのをやめる。
「今の社会では○○を手にした方が凄いから、これを持っている自分は凄いかもしれない」
社会というのは、人間の集合体であり、そこに意見はない。
よって、“今の社会では”“○○を手にした方が凄いから”の書き出しから既に、すべて、自分が勝手に周りを見て無知なままに決めた「虚構の」ルール設定となってしまっているのだ。つまり、全部が独りよがりの目線による錯覚から出来上がっていたのだ。
人は、自分で自分に沢山のルール設定を課し、それで自分を時には喜ばせたり、悲しませたりしていた。
しかし、本当の幸せは、愛は、その喜びと悲しみのどちらにもないのだ。
喜びは、本当の幸せでも愛でもない。
自分が勝手に作っていた世界(無知)と、その中での二元論の獲得ゲーム(渇望と嫌悪)の存在に、まず自分で気づき、そして、ゲーム台を片付けて、ゲーム自体から降りる事を決意した時、今まで、ゲームの世界とゲーム台というものにすっかり隠されていて見えていなかった真実が見えてくる。
それが本当の幸せであり、愛ではないだろうか。
そして、そのゲーム台を片付ける行動自体が「悟り(=二元論のゲームで自らの中に勝手に作っていた差を取る、差取り)」ではないだろうか。