嫌悪からの解放 / 無知について

※これは、私が2年前、起業する直前に出かけた瞑想修行(10日間、山奥で朝4時から夜9時まで、ひたすら誰とも話さず目も合わせず瞑想のみをするという修行の場)で、瞑想を経て気づいた事を直後に書き留めたものです。
その3です、長いので分けています。

目次

1.本当の幸せ(=愛)について
2.渇望について
3.罪悪感について
4.嫌悪について
5.嫌悪から解放されるには
6.無知について
7.獲得ゲームについて
8.悟り(=差取り)について

執着を生む事が不幸の元凶であり、執着を手放すことにより、人は、本当の幸せ(=愛)に気づける。
執着には3種類あり、渇望、嫌悪、無知が存在する。

5.嫌悪から解放されるためには

例えば、このプロセスを分かりやすい具体例で書いてみる。
職場の上司のDさんは、Cさんに「君だけを頼りにしている」と言い、Cさんを酷使した。Cさんは「優秀なDさんにこれだけ重宝されている自分はきっと特別なのだろう」と考え、一生懸命頑張った。しかし、酷使されたCさんは過労で体調を崩し、職場を去ることになった。Dさんは辞めると分かった瞬間、Cさんに暴言を吐いた。Cさんはその後何度も「でもDさんは僕の事を頼りにして僕を大事にしてくれていたんですよね」と周りに問うた。

DさんがCさんを大事にして頼りにしていたかどうかは分からない。ただの道具として扱っていたかどうかも分からない。だけど、Cさんは「大事にしてくれていたんですよね」と周りに問うている。これは、Cさんが心の奥で、
「もしかしたら道具としてしか扱われていなかったのかも(=愛されてなかったのかも)」
と言う恐怖心があり、それに上塗りするかのように、
「Dさんは僕の事を大事にしてくれていたんですよね(=愛してくれてたんですよね)」
と言う言葉を塗り薬のようにかぶせている状態だからではないか。

ここでCさんがするべき事は、Dさんに直接それを問う事でもなく、Dさんを無理やり愛する事でもなく(それは自己犠牲のもとに見返りを求める愛でしかない)、Dさんをけなす事でもなく、まずは、冷静に自分の心の中を見て、
「ああ、僕は、Dさんに道具として扱われていたと奥底で認識していたんだな」
と認める事ではないか。道具にされていた情けない自分を認める、これは当事者からすると大変に恐ろしい事かもしれない、だけど、まずはそれを認める事が救われる近道だ。

多分、認めた後に出てくる疑問は、
「あれ、僕がそう認識していたとして、本当に僕は道具として扱われていたのだろうか?」
と言う事と、
「本当に僕は情けないのだろうか?そして、情けないとしても、情けない自分は本当にダメなのだろうか?」
と言う事である。

上記の自らの質問にも自らの心で真摯に向き合ってみると、実は、道具として扱われていたかどうかも、そして、情けないかどうかも、そんな自分がダメかどうかも、全て、定かではない事が明らかになってくる。
全ては自らの心の定義づけと、自らの自らへの叱責が生み出した苦しみだったのだ。

そもそも、道具として扱われるという概念も、情けないという概念も、ダメと言う概念も、生まれたばかりの赤子の頃にはなかったはずだ。全て、生まれてからの経験で刷り込まれたものだ。
バカにする・されるという概念がない人には、たとえ、相手が「バカにしてやろう」と言う概念で接してきたとしても、自分がバカにされたという自覚はないはずだ。

じゃあ、ここで、Cさんを苦しめたDさんが幸せに生きていいのか?そこは、また別の話だ。そもそも、Dさんが本当に幸せだったら、CさんはDさんとの間でこのような気持ちになるであろうか?
Dさんは幸せではないからこのような事をするというのも真実だ。Dさんの心の中のDさん自身の執着は、Dさんが処理しない限り、何を手に入れたとしても、永遠に蠢き増大し続けるだろう。

自分の状況を冷静に見て、自分が見えない何かと必死に格闘していた事、そして、相手から何かをされた自分を情けないと思っていたことを素直に認めると、早く楽になれる。情けなかったとしても、人はいつもどうあっても等価値なのだと言う事にも気づくと、更に楽になれるであろう。

ありがちな対処法の一つに「将来Dさんを見返すために、フルパワーで頑張ってやる」というのがあるが、本当に幸せになりたいのであれば、これは根本的には何の解決にもなっていない事は明白だ。
そこについては、「7.獲得ゲームについて」に別途記載している。

6.無知について

執着の3つ目の要素である無知とは、事実の誤認だ。
世の中にはたくさんの情報があふれている。人々は、知らず知らずのうちに、それらに毒されている。
実は、人生は事実の誤認だらけなのだ。

例えば、嫌悪の話についても、このような事実がありながらも、そして、このような事を別の方法で説く書籍がいくつもありながらも、世の中は全く変わらず、永遠に同じ事を書いた、似たような本が売れ続ける。それはなぜか?

人々が事実を認識したくないからだ。
嫌悪の話を見た時に「いや、自分に限ってはそうじゃないから」と思ったとする。この時点ですでに事実の誤認が始まっているのだ。

ではしかし、どうやって、事実と、自らが誤認した虚構の事実を見分ければいいのか?

人は、何か特別な事を感じた際に、感情が生まれる。
感情が生まれた瞬間こそが、事実誤認の瞬間ではないかと私は考えている。

「年収高くて羨ましいなぁ」
この言葉を見た瞬間に「まあ、僕も年収高いからね!(=喜び)」と思ったとしても、「僕は年収低いからなぁ…(=嘆き)」と思ったとしても、どちらも事実誤認なのだ。

真実は「年収が高くても低くても等価値、全ての物事に貴賤はない」なのである。
「年収の高低で人の価値を図るとは情けない!(=叱責と怒り)」これも違う。見る角度が単純に変わっただけで、年収の高低で価値を図るのは良くない!と言う二元論を唱えてしまっている。
だから、本当の幸せに気づいている状態で上記の言葉を見ると、感情が伴わない状態で「ああ、そういう概念も世の中にはあるのだろうなぁ」と言う言葉が生まれる程度に留まる。

上記を見ても、どういう風に物事を見れば、生きるのが楽かは明白であろう。
たとえ「まあ、僕も年収高いからね!(=喜び)」でその時は快楽を感じたとしても、それも本当の幸せではない。これについても7.獲得ゲームについてに詳しく記載する。

人は驚いたことに、世の中のあらゆる事に、上記の物差しを導入してしまっているのだ。
容姿、肩書き、物事の有無…沢山の物差しに人は苦しんだり(束の間の)喜びを感じたりしている。
そして、物差しを自らが導入し作っていること自体に気づいていないのだ。

怒り、悲しみ、喜び…すべてが事実誤認の瞬間だ。
これらは全て本当の幸せ(=愛)とは別の次元のものである。

感情の22段階と言うものがあるが、私の認識は違う。
感情が生まれるイベントは、全て、本当の幸せを覆い隠すヴェールでしかないと考える。
感情を超えた、平衡な心が保たれている瞬間が本当の幸せ(=愛)であると考える。
感情は二元論に基づいた獲得ゲームによって生まれる。