罪悪感 / 嫌悪について

※これは、私が2年前、起業する直前に出かけた瞑想修行(10日間、山奥で朝4時から夜9時まで、ひたすら誰とも話さず目も合わせず瞑想のみをするという修行の場)で、瞑想を経て気づいた事を直後に書き留めたものです。
その2です、長いので分けています。

目次
1.本当の幸せ(=愛)について
2.渇望について
3.罪悪感について
4.嫌悪について
5.嫌悪から解放されるには
6.無知について
7.獲得ゲームについて
8.悟り(=差取り)について
執着を生む事が不幸の元凶であり、執着を手放すことにより、人は、本当の幸せ(=愛)に気づける。
執着には3種類あり、渇望、嫌悪、無知が存在する。

3.罪悪感について

なぜ、では、罪悪感が生まれるのか?
根源的には、それは、人は、何を持っていても持っていなくても貴賤なく等価値であるから。

その真理を人の体感覚と感情は知っているから。
だから「これはおかしい」と罪悪感という感情で反応している。

ここにある不変の真実とは、
「人は何を持っていても持っていなくとも貴賤なく等価値」
である。

4.嫌悪について

執着の2つ目の要素である嫌悪は、何か嫌な事をされた時に発生する。
相手にされた事を思い出し、相手を憎み、その嫌悪は心の中に沈殿する。

しかし、俯瞰して出てくる本当の答えは「実際は何も起きていない」なのである。

例えば、AさんがBさんに裏切られたとする。
しかし、Bさんは往々にして何とも思っていない場合がある。もしくは、悪気を感じていない場合も多い。なぜか?

それは、Aさんの心の中で仕上がっているドラマは、よりBさんを恐ろしい加害者に仕立て上げたドラマへと化してしまっているからだ。Bさんはいつもこんな事をしていて、だから今回もこんな事をして、しかも私がこんなに傷ついても露知らずの様子だ、なんて奴だ!
その感情は何度も何度も訪れて、怒りや嘆きを生む。
なぜなら、まず、裏切られたという事実自体が(実は)誤認であり、更に、自分の中に認めきれていない感情があるがために、その事実は何度もフラッシュバックされるからだ。

Bさんは「俺は裏切ったんだぜ!」とは十中八九思っていない。ただ、そこにいるのは裏切られたと自称し嘆くAさんと、Aさんの頭の中に登場している「裏切り者のBさん」だけだ。

よって、Aさんがこの時にするべき事は、Bさんを何度も思い出しては腹を立てるのではなく、事実を俯瞰して冷静に再認知し、「ああ、僕はこんな過剰なドラマを作っていたのか」とハッキリと気づく事と、「僕はこんなに傷ついていたのか」と認める事ではないか。
大抵、嫌悪の感情である怒りや嘆きの裏には「○○をされたら××な自分になってしまう、それは情けない(=愛される価値がない)、自分がそんな状態にあるなんて認められない!」というのがくっついている。

加えて、人は、自分が脳内で過剰なドラマを作って、一人で必死になっているという状況を酷く情けなく感じ、それを認める事を断固として嫌う。
しかし、それによって、認めきれず、抑え込まれた嫌悪は、更に強大化し、更なる嫌悪を生んでしまう。

そして、なぜ何度もフラッシュバックするかというと、その感情が処理しきれていないからだ。
もし、Aさんがこの時に、Bさんに対する嫌悪を解放せずに抑え込んでしまった場合、Aさんがもし似たシチュエーションに再度出くわした時には、
「ああ、またとんでもない奴が現れた!!なんで世の中にはこんな奴ばかりいるんだ!あいつも裏切り者か!」
と身構え、裏切られる前から、また裏切られる準備をしてしまうのである。そして、準備万端で裏切られることをスタンバイし、結果、見事に再度裏切られるという筋書きを作り出す(要するに、本当は裏切られていないのだ)。
そして、更に「あいつめ!」と憎む。と同時に「ああ、僕はどうしていつもこういう形で裏切られるんだろう…」と自分に対しても嘆く。完全なる悪循環だ。

そもそも、情けない自分は本当にダメなのか?そこから冷静に考えてみると気づいてくる。
情けない自分はダメではない上に、情けない自分でも、そうじゃない自分でも、同等に価値があると言う事が真理であると気づいた瞬間に、嫌悪の感情は半分近く溶け出して姿を消す。